2011年




ーー−7/5−ーー 鳳凰三山

 6月の24、25日に南アルプスの鳳凰三山に登った。7月下旬に予定している北アルプスの縦走に備えた、訓練登山という位置づけである。この山は、南アルプスの入門コースとして人気がある。しかし、私はこれまで登るチャンスが無かった。中央高速道を車で走り、韮崎付近に差しかかれば、間近に見える山。登り残したこの山を、いつも恨めしく眺めたものだった。

 例年なら、6月の終わり頃に梅雨の晴れ間が来る。今回もそれを狙って予定を立てた。しかし今年は、早々と梅雨入り宣言が出た後、梅雨前線が居座る気配は無かった。少なくとも、安曇野地域では、長雨は訪れなかった。その反面、異常に暑い日があったり、突然激しい雨が降ったりと、不安定な天気が繰り返された。

 相棒のM氏は、2008年から毎夏、北アルプスのテント山行を共にしている友人である。昨年は、北アルプス横断縦走を成し遂げた。今年は、白馬岳から日本海まで降りる「栂海新道」を踏破する予定だ。

 24日朝6時、「道の駅にらさき」に集合。M氏の車を置き、私の車に乗り込んで、登山口の御座石鉱泉に向かう。デコボコの林道を30分ほどで到着。

 
 


 この日は登り一方で、標高差はおよそ1300メートル。左のような林の道を、ひたすら登る。

 





時期のせいか、平日のせいか、山の中は全く静かだった。途中で出会ったのは、犬を連れた登山者一人だけ。里山の低山なら有りうることだが、名の知れた日本アルプスの山で、こんなに空いていたのは、私の登山経験でもほとんど無い。






















ひたすら登る。



心配した天気も、なんとか持った。



























尾根の上部に至ると、鳳凰三山の一つである地蔵岳の山頂が見えた。

オベリスクと呼ばれる岩塔が特徴的である。

M氏は、それがハート形に見えると言って喜んでいた。


















  
                                    

3時前に鳳凰小屋のテント場に着いた。


鳳凰小屋は、なにかと悪い評判が立っている。いささかの緊張感を持ってテント場の使用料金を払いに行った。

しかし、小屋の主人は気さくで、親切で、何の問題も無かった。

「人がいなくて静かですね」と言ったら、「そこが南アルプスの良さですよ」と返した。

小屋のたたずまいは素朴で、それでいて気が利いたテラスなどがあって、居心地が良さそうだった。

総合的に見て、昔ながらの風情を残した、素敵な山小屋だった。

トイレも、外見はバラックのような建物だったが、内部は綺麗な洋式で、快適だった。






 夜半から、時折り雨が激しくテントを打った。森林の上の方では、ゴーゴーと風が鳴った。

 天気が悪いので、目覚めてからしばらく、テントの中でゴロゴロしていた。そのうちM氏が携帯で天気予報を調べた。それによると、良い天気になるとの事だった。それに励まされて、出発することにした。なんだか便利すぎて気が抜けるような話である。

 まず観音岳を目指す。稜線に出ると、風がもの凄く強かった。よろけながら歩いた。登るにつれて風が強まる気配だったので、「撤退するか?」とM氏に聞いた。氏は、「この山だけでも登りたい。地に這ってでも登れないか」と言った。それを聞いて、前進することを決めた。

 観音岳の頂上に着いた。そこから引き返すつもりでいたが、先に見える薬師岳は近く、ルートを目で追うと、風が強くても危険な地形ではないように見えた。それで、先へ進むことにした。






薬師岳の山頂は、漠然として広かった。

標識の所でポーズ。






我々の他に、大学生とおぼしき男女6人ほどのパーティーがいて、岩の陰で風を避けて休憩をしていた。若者は、どんな状況でも楽しそうだ。ふと過去の自分を思い出した。

















山頂から富士山が見えた。てっぺんは雲に隠れていたが。





画像は富士山を撮ろうとしているM氏。
























来た道を観音岳へ戻り、さらに朝テント場から登りついた稜線上の分岐に到着した。



風が弱まってきたので、当初の予定通り地蔵岳まで行くことにした。
















 











地蔵岳の向こうには、下界が見えた。陽が当たっている。良い天気だったのだろう。



























山頂の手前に、賽の河原と呼ばれる砂礫地がある。

地蔵や仏像がいくつも立ち並んでいた。



大切な人を亡くした方々が、下界から運び上げたものだろうか。




























私も、幾多の故人を偲び、手を合わせた。


この3月以降、このような場面でしみじみとした気持ちになるのは、私だけではないだろう。
















 地蔵岳を後にして、一気に鳳凰小屋まで下った。そしてテントを撤収して、下山した。途中、パラパラと雨に降られもしたが、濡れて不快なほどではなかった。

 小屋から下は、前日登った道である。こういうシーンでいつも抱くのは、「こんな標高差を、よく登ったものだ」という感慨である。

 16時ちょうどに御座石鉱泉に着いた。そして車に乗り込み、道の駅へ。市街地を走りながら、数時間前まで滞在した自然界とのギャップに戸惑いを覚えた。

 道の駅の駐車場から見上げると、鳳凰三山はシルエットとなって、高みに連なっていた。





ーーー7/12−−− 高度計


 登山に使う高度計を購入した。

 現代市販されている高度計には二種類ある。ひとつは昔ながらの気圧によるもの。もう一つは、最新の技術でGPSを使ったもの。

 気圧式は、その時どきの大気圧に左右される。同じ標高に居ても、気象条件で大気圧が変われば、示す値は高くなったり低くなったりする。だから、登山で使う場合は、標高が分かっている地点でチェックをして、必要に応じて補正をしなければならない。

 GPS方式は、そのような気圧による問題は無い。その代り、衛星からの電波が上手く届かないと、正確な標高が出ない。山の中では電波状態が悪いこともありうるので、その点が不安である。また、電池の寿命が短いと言う問題がある。スイッチを入れっぱなしにすると、20時間くらいしか持たない。スイッチを切っておくと、必要な時にスイッチを入れても、計測結果が出るまで数十秒の時間遅れが生じる。また、ハイテク装置は、多機能なので、ボタン操作を忘れると使えない。当然、値段が高い。

 そこで今回は、気圧式高度計を購入することにした。ネット通販で、評判の良い品物を取り寄せた。3000円弱の価格だった。

 私が学生の頃目にした登山用の高度計は、ヒマラヤ登山に使うもので、測定範囲の上限が1万メートルくらいだった。それを国内の3000メートル級の山で使うと、全体の目盛の下の方で使う事になり、読み取りに難が感じられた。国内でしか使わないのなら、三分の二は不要な品物だった。おまけにかなりの価格だったと記憶している。

 今回購入した高度計は、針が一周して4000メートルだから、国内の登山にはちょうど良い。目盛は20メートル刻み。デジタル表示に比べれば、正確さに劣るが、実用上は問題無かろう。

 先に、ネット通販で評判が良かったと書いたが、一点だけ多くのユーザーが共通して指摘している欠点があった。気圧の変化を補正するため、外周に遊動リングが付いているのだが、これが不用意に回ってしまうというのだ。特に、専用のケースに出し入れする時に、回ってしまうと。しかし私は、そんな事は、使用に際して注意すれば良いだけだと、軽くとらえていた。

 品物が届いた日、早速裏山登りに持参した。登って行くうちに、どんどん標高の値が変わっていく。人間は、気温の変化は敏感に体感できる。湿度となると、かなり鈍い。さらに気圧となれば、ほとんど感じられない。しかし体感できなくても、高度が上がれば、着実に気圧は下がるのだ。それを目で見て、不思議な感覚だった。

 裏山での結果は、上々だった。あらかじめ地図で調べた標高差にピッタリ一致したし、登山口に戻れば、発った時と同じ値を示していた。遊動リングのトラブルは無かった。 

 先月末の南アルプス登山に、この高度計を持参した。デビュー戦である。はたして利用価値はどうだったか。

 樹林帯の1300メートルの登り。他に標高を判断するものが無い状況で、この高度計は大いに役に立った。逐一標高が変わっていくのを見れば、励みになる。先の行程の見通しを判断するのにも、助けになった。

 ところが、だんだん狂うようになった。山小屋に着いたとき、数十メートル狂っていた。翌日はもっとひどく、大きい時には100メートルほど違った値を示した。やはり遊動リングが回ってしまうのが原因のようだった。ケースに出し入れするときのみならず、歩行中もケースの中で回ってしまうと思われた。歩行中の腰回りには、この高度計を入れたケースの他に、ベルト状の物が色々付いている。時には大きな力も掛かる。そのためにケースが捻じれて、リングが回ってしまうのだろう。

 同行したM氏は、「この高度計は、リングが回ってしまう事も含めて、使えない代物だな」と決めつけた。

 何故このように容易に想定されるトラブルに対して、対策を講じてないのだろうか。別に難しい仕組みはいらないだろう。リングを任意の位置で固定できるネジでも付ければ済むことだ。これが、二人のエンジニア(一人は元エンジニア)の共通した見解であった。

 

 ともかく、高度計としての機能は有効なのだから、使わないのは勿体ない。遊動リングを固定する機能を追加すればよいのだ。自分で改造してみよう。

 自宅へ戻ってから、対策を思案した。結論として、リングと本体の間の隙間に、アクリル板の小片を挟んで固定することにした。固定効果を高めるために、アクリル板にはビニールテープを張った。そして、アクリル板が外れないように、巾広の輪ゴムでグルグル巻きにした。これにより、相当の力を加えない限り、リングは回らなくなった。

 さてこの改造、本番の登山ではどうだろうか。本番と同様の装備で山に入り、テストをすることは実質的に無理である。ぶっつけ本番で試すしかない。

 

 





ーーー7/19−−− 背負う荷の負担


 夏山登山に向けたトレーニングとして、裏山登りを本格的に採用したのは昨年から。今年は春に開始して今日(7/18)までに48回実施した。二度続けて登った日もあったから、通算で12000メートル以上の標高差を登って降りたことになる(裏山登りについては→こちら

 シーズン初めは空身で登るが、トレーニング効果が現れるにつれて、荷を背負って登るようになる。手製の背負子に砂袋、あるいはコンクリート・ブロックなどをくくり付けて、背負う。荷の重さは25キロほど。

 職業病とも言える腰痛持ちの私なので、このような重荷を担ぐ事に対して警告を発する人もいる。しかし、背負って歩いているぶんには、問題無い。むしろ、手で持って移動したり、背負い始める動作のときに、注意が必要である。

 25キロの荷物というと、体重の三分の一に近い負荷を余計に背負う事になる。そのため、いくら頑張っても歩く速度は遅くなる。データを取ってみたら、空身に比べて、おおむね五割増しの時間が掛かっていた。空身なら18分で登れるところを、25キロを背負うと27分掛かるといった感じである。

 さて、25キロの荷物を、標高差250メートル持ち上げるに要するエネルギーは、どれくらいになるか。物理学の数式に当てはめて、位置エネルギーを計算してみたら、なんと15キロカロリー程度であった。あんなに疲れるのに、たった15キロカロリーとは。

 もっとも、実際の人間の肉体の消費カロリーは、物理的な計算とは違う。あるサイトによれば、登山に消費するカロリーは、体重1キログラム当たり、一分間当たり0.155キロカロリーとのことであった。これを使って単純に計算すれば、25キロぶんの体重で、30分の登りをすれば、120キロカロリー程度が消費されることになる。物理的に計算されるエネルギーの8倍もの値だが、それだけ人間の運動効率は低いということなのだろう。

 それにしても、運動による消費カロリーというものは、意外に低い。25キロの荷を背負って、ヒーヒー言いながら山道を30分登って、120キロカロリー。インスタントラーメン三分の一くらいのカロリーでしかない。

 こう考えると、登山の荷物を軽くするということが、あまり意味が無いように見えるかも知れない。しかし、そうでは無いという事は、多少でも苦しい登山を経験した人なら、分かるはずである。少しでも荷が重ければ、バテる。

 大学山岳部の先輩で、50歳くらいの時にマッターホルンを登った人がいる。現地のガイドを雇って登ったのだが、登攀前日の装備チェックで、ガイドから厳しく言われたのは、少しでも荷を軽くすることだった。日本から持って行ったザックの中身を、片っ端から「要らない。必要ない」と外してしまう。挙句の果ては、ピッケルまで外されてしまった。わざわざこの登山のために新調した、軽量のピッケルである。たまらずその理由を聞くと「必要性は低い。重さは明らかにデメリットである」とのことだったとか。

 僅かな重さでも、積み重なれば障害になる。重力に逆らって登る登山においては、身を軽くすることは絶対的な条件なのだ。25キロを250メートルで15キロカロリーなどという物理学の説明は、登山家にとって机上の空論でしかない。

 数式上の理論とは関係なく、実際の問題は現実の行動の中で知覚される。肉体で経験して積み重ねられた事の方が、判断基準として確かである。マッターホルンのガイドは、登山の障害となる荷の重さを、身に染みて理解していたのだろう。

 それにしても、日常的なカロリーの取り過ぎ(食べ過ぎ)は、数値から判断しても、恐ろしいほどではなかろうか。






ーーー7/26−−− 数ミクロンの鉋がけ


 ある木工技術の講習会に参加した。鉋でヒノキの角材を削る実演が披露された。鉋の性能を極限まで高め、出てくる鉋屑は、向こうが透けて見えるほど薄いもの(厚さ数ミクロン)だった。

 鉋屑の薄さを競い合う競技会が、全国各地で行われている。大工や木工職人など、腕に自信のある者が集まって、愛用の鉋で角材を削る。削り取られる鉋屑の厚みが、薄ければ薄いほど上位にランクされる。鉋屑の厚みが薄いほど、削り肌が綺麗に仕上がるから、この評価基準は鉋がけの巧拙を見極める上で的を得ていると思われる。

 鉋がけを上手に行うには、まず鉋が良くなければならない。刃の切れが良いこと、台の作りが良いこと。しかし、いくら高級な鉋を用いても、使い手の技量が伴わなければ、良い削りは出来ない。

 質の高い鋼で作られた刃でも、研ぎが悪ければ切れない。台は、もともとの作りが良くても、使い手が微調整をして調子を整えないと、良い削りにつながらない。いずれも、使い手が自らやらなければならない事である。

 そのような準備段階がパーフェクトに決まり、さらに鉋を引く動作がよどみなく行われなければ、優れた削りはできない。数ミクロンの鉋屑が出るデリケートな削りなどは、正に神業と言えるだろう。その分野で、日夜研鑽を重ねている職人の努力と工夫には、頭が下がる思いである。

 ここで終わってしまえば、技術礼賛の話となる。本題はここからである。


 その技術講習会で、削りを実演した講師の人は、角材を二本準備されていた。いずれもヒノキで、長さ3メートルほど。実演の合間に、こんな言葉を挟んだ「こちらの材は加工してまだ日が浅いから、少し狂う。だから多少削り難い。あちらの材は数年経っているから、安定していて好ましい」。

 こういう事である。まず、丸太を製材し、木取りをして、乾燥させる。十分に乾いたら機械加工をして平らな材にする。そうしても、月日が経つと狂ってくる。狂ったらまた機械に通して平らにする。そのような事を繰り返していくうちに、材は安定してくる。安定した材は削り易い。逆に安定してない材は、知らない間に狂って凹凸が生じる。そうすると鉋の当たりが悪くなって、綺麗に削れない。講師の人が、角材を貴重品のようにして扱っているのが印象に残った。

 このように、機械加工によって高い精度に仕上げられた材だから、数ミクロンの削りができる。つまり機械加工が前提となっているのが、この精密な鉋削りなのである。さらに言うならば、機械で平らに仕上げた材でも、狂ってしまったら、腕の見せようがない。

 明治、大正のころまでは、こういう鉋削りの技が普通にあったものだと言われた。そうかも知れぬ。昔の職人の技は、現代人では真似できないレベルのものだったと思う。

 しかし、これが日本の伝統的な木工の世界で、日常的に使われていた技だと言われると、少々疑問が残る。文明開花以前の世には、便利な木工機械は無かった。丸太を製材して板にするのも、手で鋸を引いた。板になった材が、乾燥過程で反ったり捻じれたりしたら、それを平らに削り直すのも手作業だった。

 家具、調度品のサイズならまだしも、建築に用いる長大な部材、柱や梁、床板や天井板などを、人力だけで、数ミクロンの鉋がけが可能な精度まで、直線、平面を出すことができただろうか。できたとしても、膨大な数量の部材に一々そのような加工を施すことが現実的だったかかどうか。また、材の乾燥を自然の風に委ねるしかなかった時代に、わずかな狂いで出番が無くなるような技術が一般的に使われていただろうか。

 こうしてみると、桂離宮などの歴史的建築物が、しかも精緻な美と称される建物が、どのようにして作られたか、改めて興味を覚える。材の加工は、そして表面の仕上げは、どのような技術で行われたのか。現物を目で見、手で触ってみたいものだと思う。






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